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復讐の仮小屋にようこそ
僕は復讐が嫌いだ。
阿呆がミサイルを撃てば撃たれた側の頓珍漢もミサイルを撃ち返す。報復の応酬はやがて正のフィードバックループに突入し、出口が一切見えなくなる。暴力の連鎖は、それ以外の可能性や変容の勝手口にことごとく堅牢な鍵をかける。復讐に終わりはない。他の方法を模索したり関係が変わったりする可能性を断つ復讐のサイクルは、ひとつの系として完全に閉じているからだ。だから嫌いだ。たぶん僕は、死ぬよりも高いところが嫌いというだけではなく、閉所恐怖症でもあるのだろう。
それに、出来事のダメージと復讐が負わせるダメージはとてもつりあわない。たくさんの人を殺している殺人鬼に対して物理的に報復を企てても、奪うことができるのは殺人鬼ひとりの命に過ぎない。他方、ダンテ『神曲』地獄篇には現世で犯した罪を地獄で未来永劫贖い続ける人たち(=ダンテに嫌われている人たち)がたくさん出てくるが、どう考えても現世の罪よりも地獄の罰のほうが圧倒的に重い。犯罪とそれに対する処罰とが、ダメージや重みの観点から等しくなることは絶対にない。復讐の方法としてよく知られている、裁判や告発による社会的制裁、私刑がもたらす帰結は、その原因となった行為と比較すると、いつでも重すぎるか軽すぎかのどちらかだ。
復讐が始まるとあらゆる変容の可能性を捨て去り復讐を目的にした閉じた生を生きることになるし、復讐の結果はその原因となったダメージとつりあうことは決してないから、僕は復讐などろくでもないと思っている。けれどもろくでもないと知りつつ、復讐から逃れることができない人たちがいる。無理やり復讐を手放して加害者を赦すという仏の境地を偽装したり、示談で金銭的補償を得たりすることが一時的な凪をもたらすことはあるかもしれない。しかしどれだけ時間が経とうと、復讐心を抱く以前の状態に戻ることはない。仏の境地も示談も時間の解決も、一度復讐心に駆りたてられた者にとってはそれらも終わりなき復讐のプロセスの単なる一階梯であり、復讐の鎧戸を破る大鉈ではない。一度絡めとられたら最後、復讐の時空の住人として生きるしかないというわけだ。
だから復讐などろくでもないといくら言い募ったところでなにも始まらない。復讐の館の住人とならざるを得ない人たちを村八分にせず共に生きていこうとするのであれば、その住まいを、天井、柱、壁、床、基礎、屋根まで一度よく検分すべきだろう。復讐の館は世間でたいへん忌み嫌われているために、住人の転居の可能性は一切ないというのに、その不気味な外観を除けば、耐震診断はおろか間取りすら明らかではない。この際、壁紙の小さな染みから基礎に入ったクラックのつづら折りに至るまで、微に入り細を穿つ検分を試みるべきだろう。そうして初めてリフォームの可能性を想像することができる。それは復讐の館を終の棲家とする者にしか編み出すことのできない「お返し」となるだろう。
とはいえ、五里霧中のなかいきなり復讐の館本邸へと客を招待するわけにもいかないから、今回はひとまず世菜さんとののかさんと共に「復讐するは我にあり——倫理的お返しのすゝめ」という復讐の仮小屋を建てた。もしかしたら二度と出られないかもしれないし、小屋が丸ごと焼失したり崩落したりしてしまう可能性もゼロではない。なにも保証はない。けれども、数寄者や傾奇者がたくさん集まって見守ってくれたなら、三人寄った文殊の知恵を越える賑わいのなかからリフォームの妙案も浮かんでくるかもしれない。巻き添えや貧乏くじを好む変人の一時滞在者を求める所以である。
